「元就公」
居室の前で呼びかけると、障子の向こうからは不自然な物音がした。
積み上げられた書物が崩れ落ちる、聞き慣れた音――ではない。
もっと硬い、そしてひどく焦ったようなせわしない物音だ。
返事を待たず、障子を開ける。
こちらに背を向けて座っていた彼が、素早く振り向いた。
「や、やあ宗茂」
常と変わらぬ風を装った声音は、その実わずかに上擦っている。
室内に足を踏み入れると、小柄な身体はじりじりと後退った。
まるで、何かを隠すように。
「何を、隠しているんです」
その答えは、立ったまま覗き込めばすぐ明らかになった。
彼の肩越しに見えるのは、蓋の開いた小さな壷だ。
中身は透明な液体のようだったが、水や酒には見えない。
もっと重くとろりとした、粘りのあるものだ。
そもそも、積み上げられた書物が溢れそうなこの部屋に
水気を持ち込むような愚行を、彼が犯すとは思えなかった。
では、わざわざ持ち込まれ、しかも隠されるこれは何か。
「長寿の薬、ですか」
「違うよ」
隣に腰を下ろしながら鎌をかけると、彼は即座に否定した。
眉を下げて微笑んだかと思えば、幼子を諭すような声音で嘯く。
これは毒だ、と。
「そんな話を、信じるとお思いですか」
詰め寄りながら返す言葉は、怒りゆえのものではない。
投げかけた問いの答えなら、既に示されたも同然だ。
ある意味でとても彼らしい、ひどく遠回しな物言いで。
毒と偽って秘蔵していた壷の中身は、貴重な水飴だった――
童でも知っている、笑い話だ。
「水臭いですよ、独り占めなんて」
身を添わせて囁けば、彼は笑って壷を後手に隠した。
片手でそれを追い、もう片方の手は彼の背に廻す。
彼は緩く身を捩ったものの、本気で振り解こうとはしなかった。
子供じみた戯れ。だが、彼はそれを許してくれる。
だからこそ、安心してこんな様を曝け出せる。
しかし、もう片方の手で壷に触れようとした時。
「だめだよ、宗茂」
彼は抱擁を振り解くより先に、その手を押し留めた。
静けさとは裏腹の強い力と、思いの外沈んだ声音に驚く。
抱き寄せられることよりも、壷に触れられることが嫌か。
彼はそんなにも、甘味を好む男だっただろうか。
疑問に囚われた心の中へ、彼の言葉が唐突に滑り込む。
「君は、殺さない」
穏やかな声。窘めるように微笑む口元。
だが、瞳だけは、笑っていない。
あくまで、これは毒だという戯言を通すつもりか――
そんな、無粋な指摘を口にする前に。
思いがけない言葉と、真摯な表情にどきりとした。
そして、ふと気づく。
何気ない様子でこちらの手を制している、彼の手は。
頼りなげに見えても、戦場に立ち、敵を討つ手だ。
西国に名を轟かせた武士も。彼と策を競っていた軍師たちも。
そして彼が、憧憬にも似た眼差しで見つめていた覇王さえも。
今はもう、いない。彼が全て、葬り去った。
筆を執り書を愛する、いかにも穏和そうな、その手で。
怖気を奮うより先に、胸がとくんと一つ脈打つ。
絡め取られた指先から、疼きが沁み込むようだった。
戦の切迫も高揚も知らぬような、柔らかな造作の手。
だがその実、消えることのない血の色に染め抜かれた手。
その手の持ち主が、自分だけは殺さないと言った。
これほど偽りのない告白が、他にあろうか。
「だったら」
胸の高鳴りを抑えながら、取られた片手に力を込める。
彼がしているのと同じように、指先をそっと絡める。
「代わりに、もっと甘いものをくれますか」
背に廻していた手で、顎を掬って視線を合わせると
彼はわずかに目を見開き――やがて、自ら閉じた。
「君にだけだよ」
息を詰め、伏せられた睫毛は微かに震えている。
甘言も挑発も容易く紡ぎ、数多の謀を成し遂げた唇が
手折られるのを待つ花のように、大人しく従順になる。
彼は、気づいているのだろうか。
その仕草こそが、何より甘く度し難い毒であることに。
あるいは気づいていて、こちらを誘い込んでいるのか。
どちらでもいい。
「もしもあなたが俺を殺すというなら、それでも構いません」
どちらであろうと、大した問題ではない。
「あなたの手にかかるのなら、俺は」
「……私を信じては、くれないのかい」
困ったように呟く唇は、思った通り、甘い甘い味がした。
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