「俺は、兄ちゃんを許しておりもはんぞ」
幼い顔、眼鏡の奥にぎらりとした光を宿し、弟は言った。
「そうかあ」
胡乱な返答が、気に障ったのか。
「未来永劫、許す気はありもはん」
弟は、もう一度言った。
遠い遠い、昔のことだ。兄弟皆で、馬を見に行った。
その時、居並ぶ数々の馬を前に、自分は言った。
――こうして見ておると、馬の毛色は皆、母馬に似とりもすな。
――きっと人も、同じようなもんじゃなあ。
それを聞いた弟が見せた無言の怒りを、今もよく覚えている。
兄弟のうち、彼だけが身分の異なる側室を母に持っていたのは、周知の事実。
だが同時に、兄弟の誰もあえて触れようとはしなかった話題でもあった。
分け隔てなく育ってきた兄弟の間に、罅を入れるような言葉を口にしたのだ。
傍にいた次兄などは、文字通り言葉を失っていた。
ただ長兄だけが、常と変わらぬ態度でゆるりと煙草をふかしていた。
――どうかな。
――人と獣は違う。心の徳というものもあろう。
学問をして徳を積めば、父母を越えることもできようと。
長兄の、その言葉を聞いてからだ。
奮起した弟が、武芸と学問に励み、軍神と呼ばれるまでに成長したのは。
「憎んでよかよ、家久」
何も本当に、弟の出自を蔑んでいたわけではない。
もちろん、彼自身に恨みや憎しみがあったわけでもない。
自分にとっても、そして兄らにとっても、彼は可愛い末の弟だった。
だが、いつまでもその立場に甘え合っていては、皆が不幸になる。
いずれは弟にも、将として一軍を率いる日が訪れるのだ。
多少苦くとも、発奮を促す言葉が必要だった。
そして、それを彼に伝えるべきは、長兄でも、それを支える次兄でもない。
彼らはあくまで、苦い言葉の後から話を纏める役でなければならないのだ。
だから自分は、弟に憎まれると知りながら、二人にはできぬその役回りを。
「そいも、兄の務めじゃあ」
「ならば、何故」
だが、弟の怒りは、あの時の出来事だけに留まらないらしい。
「何故兄ちゃんは、こげん所で犬死にしとるんじゃ」
眼鏡越しの瞳が、傍らに転がった血染めの石を睨めつける。
「そうねえ……」
情けない話だ。腹を切るべき時に刀を握れず、石を用いてもなお命を断てず。
結局は、家臣の手を煩わせてしまった。
それでも、理由を問われるなら。
「弟の務め、かなあ」
家の誇りを汚し、養子の命を奪った太閤の所業に、恨みがないわけではない。
だが、諍いを起こしてまで弓を引く理由は、少なくとも自分にはなかった。
ただ、必要だった。当主として、太閤に下ると決断した長兄を支えるため。
そして、その決断に対し、家臣らが抱いた不満を引き受けるため。
それはおそらく、弟には理解の及ばぬことなのだろう。
彼はきっと、軍略にのみ生き、死にたいと願っていたのだ。
天下と国との諍い、しがらみ、そうしたものとは関わりなく
戦場の一将として、生を全うしたかったに違いない。
だが、自分は違う。自分の務めは、兄らの支える家を磐石とすることだ。
そのために命を捨てることなど、何ら惜しくない。
兄らは悲しむかもしれなかったが、それは仕方のないことだ。
弟が先立った時、自分と兄らが皆で悲しんだのと同じように。
はたして、その想いが伝わったのか。
「許しもはんぞ」
くるりと、弟が背を向けた。
「絶対に」
どこからか、怨嗟めいた呻きが聞こえる。
弟の視線の先には、のろのろと蠢く無数の影があった。
纏わりつく死臭、糸を引き眼窩から落ちかけた目玉。
進むごとに臓腑を零しながら、それらは列を成してこちらに向かっている。
これまで戦った敵たちか、あるいは鬼か。いずれにせよ、地獄の住人らだ。
だが、弟の小さな背中には、怖じる気配など微塵もなかった。
彼は将として、軍略家として生きた。だから、その後もまた。
いつの間にか血刀を提げていた、小さな指に力が篭もる。
「兄ちゃんなんか、あっち行け」
憎しみを装って吐かれる、子供じみた言葉に。
――ここはおれにまかせて、さきにいけ!
幼かった弟の言葉が、脳裏に蘇った。
ああ、その言葉を教えたのは、他ならぬ自分ではなかったか。
遊びになぞらえて、あんなにも苛烈な軍法を。
悪い兄だ。これでは、許さないと言われるのも仕方がない。
それでも、別の道を往く。
「すまん、家久」
遺された兄らを、国を見守る、自らの務めを果たすため。
――かたじけない。
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実は島津家アンソロの原稿期間中、衝動的に思いついて書いた代物です。
寄稿しようかとも一瞬考えたのですが、無駄に怖い話になったのでやめた。
女性向アンソロにホラーを寄稿しちゃだめですよね!(いい笑顔で)
[2回]
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