緑深き森の中、木々の梢に届かんばかりに高く築かれた城。
長い回廊の先、碧落と称されたその城の最上階で。
「もう、いい」
攻め込んできた敵を前に、城主は自ら剣を収めた。
てっきり、ふざけているのだと思った。
抜いたままの刀を翳し、こちらからも挑発を投げかける。
「何だよ、もう降参か?」
「そうだ」
しかし男はその言葉に、至って真剣な表情で頷いた。
「これ以上戦っても、森を傷つけるだけだ」
呟く彼の瞳は、既にこちらを見てはいない。
二人の眼下には、変わり果てた森が広がっていた。
鮮やかな緑に覆われていたはずの地を這う、濁った土埃。
拠り所を失い、今にも倒れそうな巨木。
瑞々しかった緑の草は根を断ち切られ、埋もれている。
自国に腐るほどあるような、乾ききった目の細かな砂とは違う。
草木の根を捻じ切り、湿気を含んだ土を巻き上げるのには骨が折れた。
身に負わされた傷よりも、気力の消耗の方が堪えるほどだ。
その点、未だ余力を残しているのは、むしろ男の方だろう。
幾度か刃を交えた際の傷はあるが、動きにも呼吸にも乱れはない。
しかしその状況で、彼は自ら戦いを止め、こちらに降るという。
理解できなかった。
私物を惜しみなく家臣に与え、天性無欲と評された祖父でさえ
自らの国まで、容易く他人に明け渡すような真似はしなかった。
それも家臣や領民、あるいは家名のためではなく、森のためと。
居城の周囲に見渡す限り広がる、砂の海を思い出す。
身を挺してまであれを守ろうなどとは、考えたこともない。
確かに、姿を隠し相手を翻弄しながら戦うには適した地形だ。
だが油断すれば、あれはすぐさま全てを呑み込むだろう。
人も船も――それこそ、城さえも。
天然の要害と呼ばれる地も、実情は得てしてそんなものだ。
どれほど己の利となろうとも、容易く信じていいものではない。
ましてそのために、一国の主が自らの身を投げ出すなど。
剣を捨てるよう促せば、彼は大人しく従った。
軽く放り投げられたそれを掴み、彼の喉元に突きつける。
「わかってんのか?」
森に篭もる彼にはわからないのかもしれないが、時は乱世だ。
「負けるってことは――何もかも、奪われるってことだ」
自らの弱さを認めるという点では、敗北も降伏も同じ。
滅びを恐れ、強者に従ったからといって、救われる保証などない。
そんな甘い理屈の通用する時代は、とうに過ぎ去ったのだ。
何をされても文句は言えない、いかなる屈辱にも耐えねばならない。
剣の切先を前にしてなお涼しいその顔に、それだけの覚悟があるのかと。
彼はゆっくりと、深く頷いた。
「無論だ」
穏やかな声だった。
「好きにするがいい。私も、私の兵たちも」
城の上から語りかける時も、刃を交える時も同じ。
「だが、この森は」
誰にも、傷つけさせはしない。
そう告げる時だけ、落ち着いた声は静かな決意を宿す。
じっとこちらを見つめる瞳は、驚くほど澄んで迷いがない。
見たこともないようなその色に、捕えることを一瞬躊躇った。
だが、時は乱世。勝者こそが正義なのだ。
躊躇う必要など、どこにもない。ない――はずだ。
両の手を縛される時でさえ、彼は眉一つ動かすことはなかった。
主が囚われたと知った彼の兵もまた、粛然とその後ろに従う。
螺旋状の回廊から、地上の陣から、人の姿が静かに消えてゆく。
後にはただ、傷ついた草木のざわめきだけが残るのみ。
碧落の城を巡る戦は、こうして呆気なく終わった。
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全3話くらいになるんじゃないかなあ(あらぬ方向を見ながら
[5回]
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